すぴかでございます。
今日はとっても真面目な話。
長いのでお暇な時に読んでいただけると幸いです。
ようやくモラトリアム脱却への道が、少しだけ見えてきたりしました。そんな話。
自分を納得させよう
皆さんは色々なことを頑張る時に、どんなモチベーションで頑張っていますか?
最強は『好きだから』だと思うわけなんですが、今の僕はそうじゃない。大学に入り直してからというもの、 やりたくないことを折り合いもつけずにダラダラ続ける空っぽの毎日を過ごしています。
僕はこの「折り合いをつける」という作業が絶望的に下手くそです。恵まれた環境でぬくぬく育ってしまったツケです。
今やってる勉強を好きになろうともしたんですけど、なんか拒否反応なんですかね。好きになりきれないというか、しんどさが先に来てしまうところがあります。
じゃあもう『これが好き』の道は諦めるしか無いわけなんですが、僕の場合『好き』の次にくるのは『誰かが喜んでくれるから』でした。
ある意味この性質のせいで躁鬱にまでなってしまったところはあるので、他人を頑張る理由にすることは一概に良いとは言えないです。
しかしなってしまったものは仕方ないので上手く付き合おうと考えられるようになりました。これもまたひとつの折り合いだなと思います。
さてじゃあ誰が…と考えた時に、ここが非常に難しかったです。両親の件もあり、近しい人にその理由を求めるのは怖くなっていました。
個人に理由を求めると、仮に何かで関係性が変わってしまった時に頑張る理由がなくなり、また人生単位で大きなダメージを追うことになるのが分かっているからこそ、それは難しいなと判断しました。
じゃあ例えば「世界の困っている人」のためか…?なんて考えてはあまりに現実味が無さすぎて、ずっとずっと悩んでいました。そもそも自分が世界の困っている人の役に立てるなんて思わないし。
そんな中で、僕にとって大きな出来事がありました。
転換期と、頑張る理由
先日友人と話をした際に、「死にたいと思ったことが1度もない人は6割くらいいる」という話を聞きました。
「なんとも友達が減って生きづらいよねえ」という僕の話題に対し、「こんな結果もあるくらいだもんねえ」と共感のために出してくれたような話題だったのですが、僕にとってはこれが物凄く大きな転換期になりました。
これ、日本の話か世界の話か聞きそびれてしまったので正確なことは分からないですが、日本の話だとして、5千万人くらいの人が死にたいと思ったことがあるって事なんです。
まあもっといるとは思ってたんで驚いたんですが、シンプルに仲間がそれだけいるという事実がありがたかったし、僕はこの人達とは感覚を共有できるんだなあという気づきは救いにもなりました。
ただ、じゃあなんで我々は生きづらいんだろう…と考えた時「偉い人はだいたい死にたいと思ったことない6割の側だからだ」と気付きました。ブラック勤めでめっちゃ楽しそうな人とかいるもんね。ああいう人が偉い人の器な気がする。
もうバイタリティが全然違うんですよね。
偉い人の感覚を元にルールは出来るわけなので、そうなると悲しいことにこの感覚のズレで我々は苦しみ続けるわけです。
ただ、これは全然批判ではないです。体調崩さず環境に適応してるってめちゃ凄いし。
こっちがマイノリティなんだとしたら、そもそも民主主義国家としては仕方ない部分もあるよな、とも思います。
でも同時に、これを「仕方ない」で片付けるのもあまりに悲しいじゃないかと思いました。
我々だって5千万人もいるんだから、なんかこう、もう少し上手いこと生きていけたらなあと思うわけです。
そんなことをずっと考えていたら、「単純に、偉い人に死にたいと思ったことのある4割の人間が増えたらもう少し生きやすくなるのでは?」と思いました。
運動部と文化部を分けるくらいポップに「メンタルやっちゃうよね〜 そしたらちょっとここで働いてく?」くらいの感覚で働いてみようと思える場所があったら良いなあと思います。
僕は今後そういう環境を作りたい。
メンタルをやってしまった人たちの理想の職場みたいなものを作っていきたい。
病気のせいでちょっとだけレールをはずれて、休みながら頑張ってる人と手を繋ぎながら仕事の出来る環境が欲しい。
そのためなら、今やってる興味無い勉強くらい頑張れるかな、という気持ちがやっと出て来ました。
ここから、1歩目。
こういう事を、躁状態の大言壮語で片付けないためにもこのブログに残すことにしています。
世界中!とか日本中!なんて大それた事はとても言えないけど、まずはしっかり大学を卒業して、自分の身の回りの人とくらいは手を取り合えるようになって、自分の近くに住んでいる人と手を取り合えるようになって…
そんなふうに1歩1歩進んでいきたいと思えた、非常に大きな出来事でした。
まずは、1歩目。
それではまた。